大弥奔帝國記録室

創作作品『単身神風』『金平糖』のキャラクター、世界観をまとめたサイトです

夏の夜

せみが愈々大人しくなり始めた頃の、夜更けの事でした。夏の虫の声は相も変わらず騒がしくはありましたが、それでも、みんみんと大きな声で喚くものは既に消えて、時々じじじと唸る声以外は、流水のような鈴虫の音ばかりが、窓の外に満ちて居りました。
其の晩は、廊下に敷かれた天鵞絨の、隅の方に積もる埃さえもやけに目に付きました。訓練を終え、身綺麗にして、後は眠るだけで在りましたが、いざ床に入ると、今度は、しにかけたせみよりも耳にやかましい、記録機のじろじろと拙を見詰める音。其れが大層いやになって、硝子の目玉から逃げるようにして部屋を出た拙は、しかし他に当ても無く、渋々、といった心持ちで研究室へ足を運びました。

研究室へ入ると、遑を貰った培養筒は大人しく、また普段はうんうんと呻いて熱を放出している機械も、ひやりとしたまま傍に添えられ鎮座しておりました。薄暗い室内で、彼方此方にぽろぽろと小さく灯りが点っている以外には、人も少なく、しんとしております。
奥まったところにある、小さな扉の向こう側に、思い当たる陰を見て、拙は其の扉を開きました。部屋の中にはがちゃがちゃと音が響いておりました。壁沿いの机に座っている、顔色の悪い男がちらと一瞥すると、再び机に向き直り、何を言うでも無く、文字のずらりと書いてある鍵盤をこれでもかとばかりに叩くのでした。

「新鮴」

「消灯の時間はとうに過ぎたでしょう」

「其れが、ちいとも眠れないのです。難儀しております」

「そうですか」

拙は新鮴の机にでんと据えられた機械の、中心を忙しなく動く装置を暫く眺めて居りましたが、早々に飽いて、所々革の剥がれた長椅子に腰掛けました。直ぐ横に在る籠の中から、時折ちちちと声が聞こえました。
鍵盤の音を子守歌に、漸くとろとろと眠気が迎えに来た頃、新鮴ががたりと立ち上がりました。

「イ型、暇ならば、これを秀一郎へ届けてはくれませんか」

「兄様に?ええ…構いませんよ」

新鮴と同様に、兄様も、余り眠らない御方でした。きっと今程の時間であっても起きていらっしゃるのでしょう。拙は、兄様に会いに行く口実が出来た、と逸る心を抑え、澄ました面で数枚の紙を受け取りました。

さて、兄様のお部屋が在る棟へ向かおうとして、名札を取りに行く必要が有りました。其れに着替えだって、部屋着のままで訪問するのは、とても失礼である様な気がしたのでした。自室へ戻り、きちんと畳まれた服を、つい勢い良く広げると、ばたばたと大きな音が鳴ってしまい、下品だ、ぎらぎらしていると己に言い聞かせるのでした。きっと、何事もなくただ紙を受け取って、精々、出歩いていることを窘められる程度でしょう。然し、任の始めとお終いと以外で、何の罪悪もなく、正々堂々とお話しできるのですから、彼れも粋な事をする、と密かに新鮴を褒めるのでした。

厠の鏡で見端を整え、棟と棟を繋ぐ廊下の憲兵に名札を見せて、執務室の前へ辿り着きました。大きく深呼吸をして、こつ、こつ、と静かに扉を叩きました。思いの外音が小さくなってしまい、聞こえなかったかもしれない。もう一度叩くべきか。否、聞こえていたら急かしてしまうかも知らん、と逡巡していると、どうやら杞憂に終わって、中から一言、入れ、と声がしました。案の定、兄様は未だ制服をきちんと着て、机の上で何やら書いている様子でした。

「まだ起きていたのか」

「申し訳ありません、兄様。どうも目が冴えてしまって、良くないのです」

「それで、用件は」

「此れを届けるよう、新鮴に」

矢鱈に畏まって、両手で紙を渡すと、座って待つように言い付けられました。少しの狂いもなく壁と平行に並べられた、模様織の美しい椅子に浅く腰掛け待っていると、兄様はしばらく紙と睨めっこをした後に、ふぅと溜息を吐き、奥に繫がる自室へと入ってしまいました。

それから、然程時を置かずに戻った兄様の手てには、黒く丸い器がありました。

「手を出せ。右だ」

言われるがまま右手を差し出すと、直後、拙の手の甲側に兄様の大きな掌が添えられ、拙から兄様に触れる事は有れど、兄様からは滅多に無い事ですので、あんまりに驚いて、思わず、え、と声を上げました。怪訝な顔で見据えられ、拙が言い訳代わりに首を横に振ると、兄様はふふ、と微かに笑いました。そうして、もう片方の手の指で器をとんとんと叩いて、何かの粉をほんの少し掌に零しました。

「新鮴へは私から伝えておこう。明日は忙しくなりそうだ。貴様は部屋に戻って休め」

そう言いながら、その粉を馴染ませるように、手てを擦り付けました。

「……おしろいですか?」

「塗香と云う。身を清めるそうだ。まあ、気休めにはなるだろう」

数瞬の内に、合わせた掌の辺りから匂い立つ、ふわりと甘い香りが鼻を掠めました。

「ありがとうございます、兄様。此れならば、きっとよく眠れましょう」

香りと、兄様の体温とが相俟って、とてもしあわせな心地で執務室を後にしました。何度も掌を顔に近付けて、其の度に、ついつい顔がにやけてしまうのを隠しながら部屋に戻りました。再び着替えて、急いで寝台に寝転び、兄様の優しい御顔を思い浮かべている内に、今度はすんなりと眠って、次の朝には人に起こして貰わねばならなかったのでした。